▼ストロングカタツムリさん:
> ではその過激な笑いに因って、視聴者はその脊髄小脳変性症になんらかの偏見と差別意識を抱くんですか? そこまで「健常者」は無分別なんですか? 笑いというのは幾ら過激で差別的に映っても、そこにその意思が全く無いから許されるわけです。そして笑う側の人間もそれを十分理解している(であろうことが要求される)。
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> あなた方は「同性愛者」であることにこだわり過ぎているのか、被害妄想に陥っているのかわからないけれど、それって未婚のタレントが「結婚出来ない」とか「寂しい独身貴族」とか言われているのと何ら変わりがないし、『負け犬の遠吠え』だとか、それに付随して、それに該当する女性タレントとかが、その肩書きを使って仕事をし、笑いを取ったりすることと変わりがないじゃないですか。あなたはそれについて差別だとおっしゃいますか。その冗談の中に、本当に独身であることに対する偏見と差別がありますか。本来ならば、結婚するしないも、いつするかどうかも当人の勝手だし、別に結婚していないから咎められるわけでもない。それに咎めていいわけでもない。その前提があるからこそ、それを笑いにも出来るんです。
1994年に、同性愛者であるS・Iさんの身に起こったことをお話します。ある晩、突然、Iさんの家のチャイムが激しく鳴りました。Iさんが玄関のドアを開けると、そこには何と、幼稚園児の格好をした、タレントの松村邦洋が立っていました。彼は、それがどういう事態なのか、すぐには把握できませんでした。その少し前に、週刊誌に同性愛者のカップルとしてIさんとその彼の写真が載ったこと、あるいは、そのさらに前に朝日新聞にIさんたちのことが取り上げられたので、ゲイのカップルが一緒に住んでいるということを聞きつけて取材に来たのでしょう。しかし、幼稚園児の格好をしていることが理解できませんでした。松村は、「今晩一晩、お宅の息子さんにしてください!」と何度も強硬に言いました。「いや、うちは困りますから帰ってください。他の家に行って下さい」とIさんが言うと、「いや、お宅じゃないと困るんですよ!」と切り返してきました。そこで初めて、『進め! 電波少年!』という番組でやっていた、松村がアポイントメントなしで
色々なところを訪問し、相手が慌てるのを楽しむという企画であることに気づきました。何度「帰ってください!」と言っても、家の中に入ろうとします。松村の巨体を苦労して玄関の外に追い出しました。すると、そこにはディレクターやカメラが待ち構えていました。なぜ、松村が幼稚園児の格好をしていたのか、わかりますか? ディレクターの話によれば、答えは非常に簡単で、「Iさんたちはゲイのカップルである→子どもができない→かわいそうだ→それじゃ一晩子どもになってやろう」というものでした。
ストロングカタツムリさんは、こんなことをされても許せるのですか?
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> 私の周りで同性愛嫌悪者がいたことはありません。自分が同性愛者だとカミングアウトしても、そうなんだ、くらいしか反応はありませんよ。それは偶々私が運がよかっただけなんですかね。普通だったら大バッシングを受けているんでしょうか。そこまで卑劣で過酷で惨たらしい社会に生きているんでしょうか。
あなたの周りにいなかったとしても、ゲイフォビアがいないという証拠にはならないのではありませんか?