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ゴーヤシャンプー
- 07/8/1(水) 20:24 -
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<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X; ja-jp) AppleWebKit/312.1 (KHTML, like Gecko) Safari/312@KHP059134040227.ppp-bb.dion.ne.jp>
この文献を読んで、その通りだなぁと思いました。
自殺をするかしないかっていうのは、ピストルを引くか引かないかと同じで、
それをとどめる理由がなんにせよ、それを引かせる理由がなんにせよ、
トリガーを引くのは自分。
だから、自分が相手にしてあげられる事って すごく少ないと思う
何か一つの優しさでも、とか、何か一つの気遣いでも、と思うけれど
その優しさは相手によっては迷惑になるし 気遣いが通じなかったり
それが逆に空気を悪くしてしまったり だからこそケースバイケース
「この人にはどうすればいい」なんてマニュアルがある訳じゃない
人によって言って欲しい事と言ってほしくない事がある
自殺も一緒 何が欲しくて何が要らないのか 大事なのはそこだと思う
「周りを悲しませるから」とか、「お前は生きなければいけないから」とか
自己表現が出来なくて自殺へ追い込まれていく人が殆どだっていうのに
何故そんな時に義務や責任感を焚かせるようなことを言うんだろう?
周りを悲しませるからっていうのは、確かにすごくあると思う。
自分の為に誰かが悲しんでくれるというのは、個性というものの表現でもあるし
「自分」っていうものの存在価値を知る事は出来ると思う。
けれど、その前に周りを悲しませない為に生きなければいけないなんて。
俺だったらそんな台詞は心に届かないなぁ
勿論それで心に響く人も居るだろうけど それもケースバイケース
だからそもそも「自殺が悪が善か」という議論自体が無意味だと思う。
人の生き方とか、みんな同じじゃないんだから正しい・間違ってるという
杓子で測る事自体がおかしい。
自殺というのは、社会から外れた行動であって、個人の自由であって、
哀しいけれど受け止めなければいけない現実だなぁと思いました。
<Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)@KD124208186038.ppp-bb.dion.ne.jp>
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ゴーヤシャンプー
- 07/8/1(水) 19:34 -
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▼よーすけさん:
>すみません(^-^ゞようやく理解できました。
>では貴方のご意見について述べさせて頂きます。
>まず環境ですが、なぜそこで「特殊」な環境が出てくるのでしょう?私は自分が生活している環境の中にも様々なものがあってもし一つが辛いのなら別の環境に意識の重点をシフトしてみれば?と申し上げたのですよ。私は作家でも音楽家でもないので貴方のおっしゃる環境に身はおけません、というかそうした生活をおくったことがないので私の考える「環境」ですらないのですよ。環境とはその人その人が接している生活でしょう?特殊という言葉が出てくる自体おかしなことかと思いますが。
だからあなたの仰っていることが、とくに
>私は自分が生活している環境の中にも様々なものがあってもし一つが辛いのなら別の環境に意識の重点をシフトしてみれば?
が〈私にとって〉とても特殊な能力を必要とするかも知れない、ということを示唆しているに過ぎません。それが出来ない人が存在する可能性を否定出来ますか。
>また前も申し上げましたが私は中高生の話は「例え」として申し上げました。しかし事実です。貴方は数が少ない、と切り捨てられるかもしれないが普通に考えて、数百人なくなっている人がいることを問題だと考えないのですか?高齢者が一番多いからたいしたことないと?理解できません。
大したことないと申しているのではありません。年間三万人いる自殺者の中で、そういった連鎖的自殺による死亡者は百分の一にも満たない、それは「例え」にはなり得ない、と申しているのです。数の問題ではないのですが、ここであなたが「喩え」として提起するには、大きな欠陥がある。なぜならそれは一般的な自殺ではないからです。とても詭弁的な行為ですよ。
>さらに貴方は過去50年のデータで自殺者が減っているから自殺肯定が自殺に影響するわけではない、とおっしゃいましたね?まず、なんで「50年」という長い期間で見る必要があるのですか?日本では何十年前と今とでは経済的背景、社会的背景が全く違います。当然自殺を考える年代、自殺理由も違ってくるでしょう。さらには情報媒体も違う。このような状態で、単純に評価すること自体ナンセンスだと思いますが?また現在集団自殺するきっかけはほとんどインターネットの自殺サイトです。つまり自殺を肯定する考えがサイトという形になり多くの人に影響するではないですか。これでもなお自殺肯定による自殺を考えてる方への影響はないとでも?
だから、私はただ、自殺を肯定したからと云って自殺者が増えるわけではない、ということを申し上げているんです。そもそも勝手に増えていると思い込んでいるあなたが読み誤っているだけでしょう。それを責任転嫁と云います。
>最後に私は全ての人間にとって「完全なる客観視」など不可能だと考えています。だってみんな立場が違うのですから。貴方も私も主観的なもの言いの度合いで言えば大差ないと思いますが。
そうですよ。
>しかし実際我々はそうした考えの土台に基本的な共通の価値観をもっています。それが倫理です。
哲学の場ではそれを立証出来るのかどうか疑問だ、という流れがあります。パラダイムではないのでしょうが。
しかし多数的価値観を持ち得ない人を排他するのが倫理なのでしょうか。
そしてそれに論理性を持たせるために生まれたのが倫理「学」なのですよ。ですから貴方のおっしゃる通り倫理学は当然完全なる論理の世界です。否定しません。だって昔からある倫理に論理性を持たせるための学問ですから。ただ倫理は基本的な人間の心でしょう?
本当にそうですか。どうして論理的に説明出来ないことをいとも簡単に信用してしまえるんですか。騙されますよ、その内。
>「人を殺してはならない。生きることはすばらしい。これ理屈必要ですか?」という理屈というか考え(わたしはこれを理屈だと考えておりませんので)を屁理屈と決めつける貴方の言葉に私は違和感「しか」覚えませんでした。
それはあなたが不勉強だからではないのですか。
何故人を殺してはいけないのかしっていますか。それを倫理だからと云っているようではお話しにならない。
生きることが素晴らしいというのは普遍性のあることですか。ないです。それを人間に共通する価値観・概念だとおっしゃるのなら、それを証明して下さい。理屈を捏ねることすら出来ないのなら、返信は結構です。身の為にならない。
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X; ja-jp) AppleWebKit/312.1 (KHTML, like Gecko) Safari/312@KHP059134040227.ppp-bb.dion.ne.jp>
すみません(^-^ゞようやく理解できました。
では貴方のご意見について述べさせて頂きます。
まず環境ですが、なぜそこで「特殊」な環境が出てくるのでしょう?私は自分が生活している環境の中にも様々なものがあってもし一つが辛いのなら別の環境に意識の重点をシフトしてみれば?と申し上げたのですよ。私は作家でも音楽家でもないので貴方のおっしゃる環境に身はおけません、というかそうした生活をおくったことがないので私の考える「環境」ですらないのですよ。環境とはその人その人が接している生活でしょう?特殊という言葉が出てくる自体おかしなことかと思いますが。
また前も申し上げましたが私は中高生の話は「例え」として申し上げました。しかし事実です。貴方は数が少ない、と切り捨てられるかもしれないが普通に考えて、数百人なくなっている人がいることを問題だと考えないのですか?高齢者が一番多いからたいしたことないと?理解できません。
さらに貴方は過去50年のデータで自殺者が減っているから自殺肯定が自殺に影響するわけではない、とおっしゃいましたね?まず、なんで「50年」という長い期間で見る必要があるのですか?日本では何十年前と今とでは経済的背景、社会的背景が全く違います。当然自殺を考える年代、自殺理由も違ってくるでしょう。さらには情報媒体も違う。このような状態で、単純に評価すること自体ナンセンスだと思いますが?また現在集団自殺するきっかけはほとんどインターネットの自殺サイトです。つまり自殺を肯定する考えがサイトという形になり多くの人に影響するではないですか。これでもなお自殺肯定による自殺を考えてる方への影響はないとでも?
最後に私は全ての人間にとって「完全なる客観視」など不可能だと考えています。だってみんな立場が違うのですから。貴方も私も主観的なもの言いの度合いで言えば大差ないと思いますが。
しかし実際我々はそうした考えの土台に基本的な共通の価値観をもっています。それが倫理です。そしてそれに論理性を持たせるために生まれたのが倫理「学」なのですよ。ですから貴方のおっしゃる通り倫理学は当然完全なる論理の世界です。否定しません。だって昔からある倫理に論理性を持たせるための学問ですから。ただ倫理は基本的な人間の心でしょう?「人を殺してはならない。生きることはすばらしい。これ理屈必要ですか?」という理屈というか考え(わたしはこれを理屈だと考えておりませんので)を屁理屈と決めつける貴方の言葉に私は違和感「しか」覚えませんでした。
<DoCoMo/2.0 P902iS(c100;TB;W24H12;ser357664003193648;icc8981100000355250335F)@proxy3127.docomo.ne.jp>
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ゴーヤシャンプー
- 07/8/1(水) 19:21 -
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▼お告げさん:
>まずは私の自殺に関する考えを簡単に述べたいと思います。
>私は自殺を肯定することができません。
>そもそも自らの命を含め全ての命とは何処に帰属するものでしょうか?
>私は命とは、この世の万物全ては、自分たち人間の認識を大きく超えた現象や流転の中で必要があるために生み出された存在であると私は思います。
あなたがなにをどのように考えていたり、なにを信じるかは私には関係のないことです。しかしながら、それを私に強要しないで下さい。信じるべきだとは到底思えません。
>私達が生まれながらに不平等であったり、不幸であったり、あるいは恵まれたり、幸せだったりと様々ですが、しかし、私達が恵まれて幸せと感じている人が、必ずしも本人が幸せであり、恵まれていると感じているとは限りません。
>私達が自殺したいほど不幸か?または、とても幸せと感じるかは、その当事者がどう捉えるかによって変化する、とても曖昧で狭い範囲での考えでしかないと思います。
当事者によって如何様にも変化することを理解しておきながら、何故それが「曖昧で狭い範囲での考え」としてしまえるのですか。広い範囲の考えってどのようなものですか。何と比べて狭かったり広かったりするんですか。
>私達はどんなに不幸であっても、世の中がどれ程にも理不尽だとしても、今、この世に命を与えられたことは、自分が少なくても、この世に何等かの必要が生じたために生み出されたと信じるべきです。
だとは私は思いません。
>また、この世における自らの必要性と存在意義とは、常に自ら考え、行動とし、具体的に答えを出して行かなければならない問題です。
かどうかは当事者によって違います。
>もし、私達がこれ等を怠たったとしたら、自らの苦痛を和らげる為だけに自らの命を絶つ事が肯定されてしまいます。
肯定されていますよ。肯定してはだめなんですか。尊厳死や安楽死の問題を用いるのは安易だけれど、ですがそれが合法化されている国なら、肯定されているとしても過言ではないはずです。
>自殺することは本来、この世で果たすべき役割を、当事者を必要としている人達を見捨て責任を放棄し逃げ出す無責任な行動ではないでしょうか?
だとは思えません。私は特定の宗教を信仰していないので。この世でない世の存在すら立証できないのだから、この世や他の世の存在を仮定しているあなたと私では立場が違います。
>私達の命とは今、この時、この場所だけの存在ではありません。
>私達の命とは生きていることではじめて、いつか、何処かで自身と必要とし出会うことを希求している誰かが居ると私は思いますし、それを信じ続けることが大切だと思います。
大切だとは思えません。
>私達の命は自身に帰属するのではなく、自身を必要として待ち続ける人達、そして、この世の森羅万象全ての必要とされた為に生み出された命です。
誰によって生み出されたのですか。森羅万象と言葉を濁さず、はっきりと解り易い様に説明して下さい。
>決して、命とは当人だけに帰属する所有物ではありません。
それは何故ですか。また根拠はありますか。
>自殺とは自らの命を所有物と見なすことであり、また、自殺を肯定する考えは、人の命を物と同じく見なしてしまう、極めて唯物的な短絡的な考え方だと私は思います。
命と物の違いは何ですか。唯物的、というより唯我・独我的と称されたい。また短絡的な考え方と云うのはどうしてですか。
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X; ja-jp) AppleWebKit/312.1 (KHTML, like Gecko) Safari/312@KHP059134040227.ppp-bb.dion.ne.jp>
ゴーヤシャンプーさん、はじめまして。
この度、ゴーヤシャンプーさんのご意見を拝見して、私が思う事をいくつか書き連ねたいと思います、ご無礼をどうかお許し下さい。
まずは私の自殺に関する考えを簡単に述べたいと思います。
私は自殺を肯定することができません。
そもそも自らの命を含め全ての命とは何処に帰属するものでしょうか?
私は命とは、この世の万物全ては、自分たち人間の認識を大きく超えた現象や流転の中で必要があるために生み出された存在であると私は思います。
私達が生まれながらに不平等であったり、不幸であったり、あるいは恵まれたり、幸せだったりと様々ですが、しかし、私達が恵まれて幸せと感じている人が、必ずしも本人が幸せであり、恵まれていると感じているとは限りません。
私達が自殺したいほど不幸か?または、とても幸せと感じるかは、その当事者がどう捉えるかによって変化する、とても曖昧で狭い範囲での考えでしかないと思います。
私達はどんなに不幸であっても、世の中がどれ程にも理不尽だとしても、今、この世に命を与えられたことは、自分が少なくても、この世に何等かの必要が生じたために生み出されたと信じるべきです。
また、この世における自らの必要性と存在意義とは、常に自ら考え、行動とし、具体的に答えを出して行かなければならない問題です。
もし、私達がこれ等を怠たったとしたら、自らの苦痛を和らげる為だけに自らの命を絶つ事が肯定されてしまいます。
自殺することは本来、この世で果たすべき役割を、当事者を必要としている人達を見捨て責任を放棄し逃げ出す無責任な行動ではないでしょうか?
私達の命とは今、この時、この場所だけの存在ではありません。
私達の命とは生きていることではじめて、いつか、何処かで自身と必要とし出会うことを希求している誰かが居ると私は思いますし、それを信じ続けることが大切だと思います。
私達の命は自身に帰属するのではなく、自身を必要として待ち続ける人達、そして、この世の森羅万象全ての必要とされた為に生み出された命です。
決して、命とは当人だけに帰属する所有物ではありません。
自殺とは自らの命を所有物と見なすことであり、また、自殺を肯定する考えは、人の命を物と同じく見なしてしまう、極めて唯物的な短絡的な考え方だと私は思います。
<KDDI-KC38 UP.Browser/6.2.0.11.1.2 (GUI) MMP/2.0@07031460976560_mi.ezweb.ne.jp>
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ゴーヤシャンプー
- 07/8/1(水) 18:16 -
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なに誤解していらっしゃるんですか。あなたは自殺を肯定すると自殺者が増えるかも知れないとお考えなのでしょう。ですがそれは否と申し上げている。自殺を客観的に否定することは出来ません。だからといって自殺者が増えるわけではないのです。だって日本では古来より自殺を禁忌とする文化がないことになっていますからね。
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X; ja-jp) AppleWebKit/312.1 (KHTML, like Gecko) Safari/312@KHP059134040227.ppp-bb.dion.ne.jp>
すみませんが「自殺が否定され得ないのは真理だから覆りようがない」というのはどういった意味ですか?自殺を否定することは出来ない、という意味ですか?であるなら次の文に繋がる気がしないのですが…話の腰を折るようですみません…
<DoCoMo/2.0 P902iS(c100;TB;W24H12;ser357664003193648;icc8981100000355250335F)@proxy381.docomo.ne.jp>
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ゴーヤシャンプー
- 07/8/1(水) 16:12 -
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自殺のイヴェントってなんですか? そもそもそこがよくわからない。自殺が否定され得ないのは、それは真理なのだから覆り様のないことでしょう。けれどでは自殺を肯定したからと云って、自殺者は増えるんでしょうか。それを論理的に、客観的に、説明出来るものでしょうか。
>更には「自殺を肯定する」かのような考えが自殺を思い止まっている人に悪い方向に背中を押しているのではないか、だからこそ連鎖的に自殺する人が増えているのではないかと申し上げたのですよ。
この部分です。ここを客観的に説明出来るでしょうか。否だと思います。自殺は極めて主観的な問題です。そもそも客観的な観点に立てるわけではない。それに証拠がないんです。自殺者は増えている様に見えますが、実は減っているんです。過去五十年の自殺者の推移を示したグラフをみればわかることですが。
中高生の集団自殺って事実ですか。私は大学生や二十代の集団自殺は知っているけれど、中高生の集団自殺はしらない。中高性の連鎖的な自殺はありますが、それは極めて得意な例でしょう。例えにはなり得ない。だって特殊なことなのだから。中高性が年間どれだけ自殺をしているかご存知ですか。全て会わしても確か千にも満たない。そのなあkで、連鎖的な自殺が、年間どれだけ起こっているのか。年間三万人の自殺者がいるということは、一日に百人近くいるわけです。ニュースでそのことが取り上げられますか。中高性の自殺はとても劇的です。話題性がある。視聴率も撮れる。私にはあなたがマスメディアの意図的な情報に躍らされている様にしか思われない。だって高齢者の自殺が最も多いのですから。
屁理屈の意味を知っていますか。屁理屈を仰っているのはあなたですよ。
>悪いに決まっているでしょう。この問に理屈は必要ですか?
そうあなたは仰った。それこそ屁理屈です。屁理屈とは、理屈の様に見えて全く理屈ではないことを云います。
そして、なんで悪いに決まっているんですか。誰が決めたんですか。悪いと決めつけているのはあなたであって、それは至極主観的なものです。それを普遍化したり客観化して、さもそれが真理だという風に仰るのはやめてください。
倫理学ってご存知ですか。倫理学は歴とした学問です。倫理の問題が理屈を必要としないと云うのは、全くの矛盾です。倫理学は徹頭徹尾論理的な構築の上に成り立っている。そしてその後に続く、当然普遍的ではないのですか、というのの意味が分からない。
論理整合性を欠いたあなたの発言を、どのように普遍的だと捉えたらよいのですか。どこまでも主観的な発想を元にした発言の、どこが普遍的なんですか。もし普遍的だと仰るのなら、あなたは普遍という言葉を履き違えています。
ではあなたは今自殺をしようとしている人を前にして、説得出来ますか。自殺を食い止めることが出来ますか。自殺をしたい人にとって、誰かが悲しむかどうかなんて関係ない。誰が悲しもうが、自分の苦しみを和らげる方が優先でしょう。説得力がない。
あなたはでは、原稿用紙百枚分の小説は書けますか。あなたはでは、精緻な立体造形を作成出来ますか。四管編成の管弦楽を使用した交響曲を作曲出来ますか。あなたにはこれらはとても特殊なことの様に思うかも知れない。もし私やその他の人にとって、
>その他の環境では立場が違うのだから自分の気持ちをそちらにシフトしたら少しでも前向きになれるのでは?
がとても特殊なことだとするのならば、どうしたらいいのでしょうか。それに私は一言も、環境が諸悪の根源で、自殺の全ての動機だ、とは申し上げていない。けれど極めて高い確率でそれは当てはまる。精神疾患や生活環境ではないその他の理由によって引き起こされる自殺って、例えば何ですか。
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X; ja-jp) AppleWebKit/312.1 (KHTML, like Gecko) Safari/312@KHP059134040227.ppp-bb.dion.ne.jp>
それはみんな内因的な悩みはあるでしょう、人間なんですから。ですが前にも述べましたが、自殺がイベントとして取り上げられ、更には「自殺を肯定する」かのような考えが自殺を思い止まっている人に悪い方向に背中を押しているのではないか、だからこそ連鎖的に自殺する人が増えているのではないかと申し上げたのですよ。
また私が中高生の話を全てではなく「例え」として申し上げております。しかし事実でしょ?現に連鎖的に亡くなっているではないですか。これを「意図的だ」というのは暴言です。
なぜ自殺が悪いのか?それは普遍的な理由か?そのような問が私には屁理屈にしか聞こえません。人が亡くなるのはいいことですか?殺すのはいいことですか?ましてや自らの命を絶つことはいいことですか?悪いに決まっているでしょう。この問に理屈は必要ですか?貴方は間違っている。これは倫理の問題です。当然普遍的ではないですか。
また私は何度も述べていますが既に自殺された方を責めろ、とは申しておりません。しかし今生きている人に自殺を肯定するような考えを触れさせるのは危険だ、といっているのです。
最後に、環境について私が言いたかったのは例え一つの環境で絶望したとしても、その他の環境では立場が違うのだから自分の気持ちをそちらにシフトしたら少しでも前向きになれるのでは?ということです。貴方のおっしゃるように環境が問題の一つである、と考えております。だが「全ての」環境ではないでしょう?と言いたいのですよ。
<DoCoMo/2.0 P902iS(c100;TB;W24H12;ser357664003193648;icc8981100000355250335F)@proxy3139.docomo.ne.jp>
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ゴーヤシャンプー
- 07/8/1(水) 15:02 -
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何か理由がなければ集団自殺も練炭自殺もしないでしょう。恒常的な自殺願望があるから、仲間を集めて自殺をする。それは突発的とは言えないのでは。連鎖的な自殺というのも、集団ヒステリーと云って、私もその辺りは詳しくないのですが、けれどなんかの内因する動機があるんですよ。
また何故中高性に限定するのかがわからない。上記JINGさんの返信にもそのことを書いています。
深い考えってなんですか。深くない考えってなんですか。漠然とでも自殺したいと思ったことがない人間はそう多くはないと思います。それでも実際に自殺してしまう人はそんなに多くはありません。毎年三万人という数が果たして多いのか少ないのかは判断出来かねるけれど、でも彼等が急に突然死にたくなって自殺した、とは思い難い。人間には生きる本能がありますから、それに逆らう自殺という行為が、そう易々と行われるものだとは思われ難い。例外もあるのでしょうけれど。
>何でも一くくりに環境のせい、というのは言葉が過ぎている気がします。
私はとくにどのような環境かは限定していない。だから言葉が過ぎているように感じるのは錯覚だと思います。環境の所為じゃないとして、では自殺の理由とはなんだとお考えですか。学校や家庭や職場や地域社会や、さまざまな環境が自殺の引き金となると容易に想像出来る。
私は何故か死んでいないだけなんです。私は決して前向きにいきてはいない。たまたま生きているだけなんです。ただ自殺をしなかった、というだけなんです。
私には使命感も目的意識もありません。全く無いと言えば嘘になるけれど、それが生きる理由にはなっていない。生きる理由なんてもともとないですから、たまたま生きてしまっている、としかいい様がない。
自殺は否定出来ないんです。誰もその権限を有していないんです。私のとっても近しい人が自殺をしたら悲しむでしょう。ですが私はそれを否定出来ない。何故止められなかったのかと思い悩むことがあっても、自殺をしてしまった人をどうやっても責められない。
どうやっても隠蔽できないんです、自殺を。自殺がもし悪いことなら、その理由を書いて下さい。そしてそれが普遍化出来る物なのか、相対化出来る物なのか、他者にも適用出来るのか、考えてみてください。
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X; ja-jp) AppleWebKit/312.1 (KHTML, like Gecko) Safari/312@KHP059134040227.ppp-bb.dion.ne.jp>
あまりに酷い誹謗中傷のときは不法行為責任による損害賠償請求をされるし、名誉毀損罪や侮辱罪に該当するため訴追されますよ。自分の発言にはきちんと責任をもった方がいいと思いますよ。
<DoCoMo/2.0 SH903i(c100;TB;W24H16;ser359481003765210;icc8981100000316746371f)@proxy189.docomo.ne.jp>
あの…私自殺否定派です…私が述べてきたのは「自」殺なんだから自分の中で納得できればいいだろう!!的な考えは間違っている、という主旨なのですが…その様に受け取っていただけないでしょうか。
また自殺者が見るも無惨なのと自殺の是非、あるいは原因追求とは根本的に話が違う気がします。間違っているように感じられましたらご指摘下さい。
<DoCoMo/2.0 P902iS(c100;TB;W24H12;ser357664003193648;icc8981100000355250335F)@proxy3136.docomo.ne.jp>
返信ありがとうごさいます。すみません、ここからは一つにまとめさせていただいてよろしいでしょうか?なんか議論がかぶる気がしまして(^-^ゞ
まず貴方のご意見を伺うと突発的な自殺者は重度の精神疾患を持っている方だと言う、果たしてそうでしょうか?例えば中高生の自殺、報道された途端に流行るというか、連鎖的に自殺者が出てきますよね。練炭自殺、あるいは集団自殺もそうです。つまり、「自殺」という行為がイベントとしてとりあげられるとその流れに乗っかるように多くの人が自殺していく、これはみんな貴方のように「深く考えた上」での自殺志願者なのでしょうか?私には突発的に、流れ乗ってるだけのような気がしてなりません。つまり「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のようなね。
また貴方は自殺するような環境も問題である、とおっしゃいました。確かにおっしゃる通りです。しかしだからといって環境全てがその人の選択を自殺の一つだけに絞らせる訳ではありません。やはり選択をするのはその人自身なのですよ。周りが自らを排除するように感じて、それに従うように自らを殺めるのは果たして深い考えのもとの行為なのでしょうか?さらに環境というのは一つだけではありません。例えば学校の環境と家庭の環境、さらにはその他の環境も細かく分ければいろいろです。そしてその細かい環境のなかでのその人の立場も様々なのですよ。「内弁慶」という言葉があるようにね。何でも一くくりに環境のせい、というのは言葉が過ぎている気がします。
最後に貴方は「前向きに生きれないから自殺志願者なのだ」と言った主旨の事をおっしゃっている。しかし大変失礼ながら貴方はなぜ一昔も前から自殺志願者であるのに今を「生きている」のですか?それは意識的にしろ無意識にしろ、貴方の中に「やらなければならない」使命感や目的意識があるからではないですか?常々私は思うのですが、正直に申し上げるとこの世に絶望し、もう前向きに考えれないと思い込む「だけ」では自殺はしないとまでは申しませんが物凄く少ないものと思っています。ただ危険なのは、そうした絶望感漂う状況の時に、ふと自殺を肯定するようなイベントや考えがその人の目にとまり、耳に囁いてくることです。貴方は環境が問題とおっしゃいますが、私はむしろこっちの「環境」こそが諸悪の根源のような気がしてなりません。だからこそ、自殺肯定なる考えは容認できないのです。
<DoCoMo/2.0 P902iS(c100;TB;W24H12;ser357664003193648;icc8981100000355250335F)@proxy3113.docomo.ne.jp>
よーすけさんへ
自殺肯定派の上に、自殺に関して美化していますね。自殺遺体を見た事有りますか?
俺は画像・写真で見ただけですが、正直言って綺麗な死に方とは言えないですよ。自殺の方法によっては悲惨な状態ですよ
服毒・刃物による自殺・首吊りは穴からは汚物が垂れ流しでの上に、青木ヶ原樹海の自殺死体は腐っては野犬・小動物の餌になってはバラバラになったりね。鉄道自殺は、切断だけなら良いにしても大半がバラバラに吹き飛ぶ。投身自殺は、頭・身体が割れて中身が飛び出て見るも無惨な状態だよ。焼身自殺は、黒焦げの状態だよ。 普通の死に方とは違って良い死に方とは言えないよ
俺は、自殺反対派だから自殺をする人々の気持ちは理解出来ないよ。理解したいとも思わないしね
<KDDI-SN37 UP.Browser/6.2.0.11.1.4 (GUI) MMP/2.0@05001013323757_ad.ezweb.ne.jp>
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ゴーヤシャンプー
- 07/8/1(水) 13:42 -
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▼よーすけさん:
>考察読ませていただきました。これからは貴方の文への疑問点を述べさせていただきますが、どうか失礼をお許しください。まず自殺者というのは貴方の様に「自殺こそが幸せへの唯一の道である」と考えているような人ばかりではありません。むしろ、これは個人的な意見ですが、突発てきな自殺の方が多い気がします。であるならば、そうした突発的な行動までもごっちゃにして貴方は肯定されますか?是非伺いたいと思います。
突発的な自殺に就いては、重度の精神疾患が認められるのではないでしょうか。ここで扱っているは純粋自殺(なにか精神的・身体的欠陥があって行われる物ではないということ)なので、その限りではないように思います。
>また最後の方で貴方は「この世は不条理で不公平だという真実にたどりついたから自殺する」といった主旨の文を書かれていますが、これは自殺する人でなくても多くの人は気付いている気がします。ただ大事なのはその上で自分はどうあるべきか、どう前向きに生きていくかという考えを持つことではないでしょうか。「真実に気付いたから自殺する」というのは本当に失礼ですがどうも私には甘ったるい考えのようにしか思えませんでした。
どの程度その真実に気付いているのか、理解しているのかは各々によって違いますが、ですが前向きに生きることが出来ない人間にとっての安息である自殺は存在します。
前向きに生きると云うのは、具体的にどういうことですか。また前向きに生きる、ということは、誰でもできることなのですか。甘えているのは=自殺者を咎められる位置にいる=恵まれている方々の方です。
人間にはそれぞれ出来ることと出来ないことがあります。あなたは前向きに生きることができるのでしょう。ですがどうしたってそれが出来ない人はいるんです。そういう方々は専門医療の援助が必要ですが、それも万能とは言えない。何故なら精神疾患に陥っている方々は、そうした治療で改善されることもありますが、そうでない自殺志願者の場合は、薬をもってしても改善されるかどうかはわからない。
<Mozilla/5.0 (Macintosh; U; PPC Mac OS X; ja-jp) AppleWebKit/312.1 (KHTML, like Gecko) Safari/312@KHP059134040227.ppp-bb.dion.ne.jp>
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ゴーヤシャンプー
- 07/8/1(水) 13:35 -
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▼よーすけさん:
>「後追い自殺をしてしまうこともあるのだけれど」肯定してしまうのですか?どうも私には理解できません。「人が亡くなる」可能性が生まれる時点で否定しなければならないのではないですか?
そうおっしゃっているのだから、自殺をさせてしまう周囲の人々にも責任はあるわけでしょう。もしかしたら食い止められたかもしれない。自殺を否定するのではなくて、自殺に追い込んでしまった環境を否定すべきでしょう。
自殺者の遺族が後追い自殺することはそう多くありません。何故なら愛する人を失ってしまった理由が自殺だからです。遺族は愛する人を失ったからといって自殺をもって慰めようとは思わない。
だからこそ遺族はいつか立ち直るんです。愛すべき人を失った哀しみを背をって生きるために(それには自殺に追い込んでしまったという罪悪感も含まれていることでしょう)、自殺してしまったその人の分まで生きようと思うでしょう。
あなたの身近な人に自殺をしてしまった方がいらっしゃるかどうかはわかりかねるし、そもそもこの議論に於いてはそれは関係のないことですが、根本的に間違っているのは、親や兄弟が悲しむからといって思いとどまれるくらいの自殺願望しかないのなら最初からしません。それが出来なくなってしまうほど追い込まれてしまったからこそ、自殺をするんです。
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考察読ませていただきました。これからは貴方の文への疑問点を述べさせていただきますが、どうか失礼をお許しください。まず自殺者というのは貴方の様に「自殺こそが幸せへの唯一の道である」と考えているような人ばかりではありません。むしろ、これは個人的な意見ですが、突発てきな自殺の方が多い気がします。であるならば、そうした突発的な行動までもごっちゃにして貴方は肯定されますか?是非伺いたいと思います。
また最後の方で貴方は「この世は不条理で不公平だという真実にたどりついたから自殺する」といった主旨の文を書かれていますが、これは自殺する人でなくても多くの人は気付いている気がします。ただ大事なのはその上で自分はどうあるべきか、どう前向きに生きていくかという考えを持つことではないでしょうか。「真実に気付いたから自殺する」というのは本当に失礼ですがどうも私には甘ったるい考えのようにしか思えませんでした。
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「後追い自殺をしてしまうこともあるのだけれど」肯定してしまうのですか?どうも私には理解できません。「人が亡くなる」可能性が生まれる時点で否定しなければならないのではないですか?
また自殺した家族や恋人、親友がしっかりと立ち直れるとは私の実体験からも思えないのですよ。外見上は泣いたり、崩れたりしなくともいつまでたっても心に重い十字架、というか悲しみが残っています。だからこそ私も含め人間は死を選択しそうな時にそういった自分を思ってくれる周りの気持ちを少しでも考え、死という選択を思い止めるべきではないかと思うのです。
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ゴーヤシャンプー
- 07/8/1(水) 2:24 -
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なんだかなと思うのは、現実逃避と厭世を混同している書き込みが多いこと。現実逃避なら旅行でもすればいいし(積極的な言い方を用いるなら気分転換)、ひきこもりでも十分に現実逃避なのだけれど、自殺者はひきこもりでは十分ではなくて、それは現実逃避ではなくて、日常や世界そのものに対して絶望し、一刻も早く消え去りたいとも思うわけだから、それは厭世であって、現実逃避という言葉で片付けるのは乱暴だと、私は思う。
私は自殺は肯定派なんだけれど、一昔に自殺についての論考を書いたことがあるので、ただの目立ちたがりと言えばそうなんだけど、掲載してみようと思う。
UNCERTAINTY PRINCIPLE
一 幸せになるために死ぬ
自殺とは人間らしい死に方である。ほかの動物にも、自殺と思しき死因は報告されているが、ヒトのように多種多様な手段を持って遂行する生物はほかには無い。ある報告に因ると八十三種の方法が有るとされている。
最もポピュラーな方法であろう首吊りは、人類が生み出した文化の中でも最も特異かつある種の芸術性すら含み持つ物ではないか。その他にも種類豊富に存在するわけだが、自殺に至る動機も様々で、先述の報告では、九百八十九もあるという。死に方や動機はどうあれ、私は此処で自殺の是非を考察してみようと思う。
はじめに述べておくが、私は自殺志願者である。毎日毎夜死ぬことを考えない日は無いくらいの時期さえあった。
自殺というのは当事者にとって最善の方法として行われるものである。人間というのは幸せを追求するという、極めて義務に近いような権利を持っている。というより、人間は、自ずと幸せを求めて行動してしまっている。本能の侭に快楽を求めるのだ。それは実は、幸せになるために行っている、という本質が有るのだ。実際は快楽を追求することの方が元来備わっているものではあるが。
然し、人間というのは、本能のみで生きているのではない。「理性」と呼ばれるものを持ち合わせ生活しているのだ。理性というものは本質的に快楽を求めることを嫌う傾向がある。然し、理性と本能とのバランスが動物としての子孫繁栄という使命を果たすのである。幸せを追究する心理というのは、理性が持っている部分である。動物としての本能を抑えるかわりに、幸せという元来持ってはいないものを追求するのである。
人間は幸せを追求する為に存在していると言ってよいだろう。幸せになること、そうであろうとすることが生きる意味なのである。若しくは、生きる目的なのである。自殺既遂者、自殺未遂者、自殺志願者の「自殺者」は生きることに幸せを見いだすことが出来ず、死に見いだす、というよりは、より幸せに近づくであろう、今生きている中での不幸よりは幸せに近いだろう、と思索するのであろう。そういう構図があるのである。勿論、必ずしも幸せを就き窮しなければならない、というわけではない。然し乍ら、それは元来人間に備わっているものなのは確かであるし、結果的には、人間が当時あった状態より幸せを希求して行動している。今よりもましな状態へ。其の様に行動してしまうのは、人間が人間たる所以である。(幸せとは何か、という重大な問いには此処では触れない。)
二 自殺と本能
では、具体的に自殺の動機は何であろうか。それは当事者それぞれで先程述べた通り、約千種類の動機がある。勿論、それはそのようにカテゴライズ出来る、ということで、実際には当事者の数だけ動機がある。それは当事者の生育環境や、当時の状態、心理的な状態、遺伝的要素もあるとされる。共通項としては「苦しみ」があげられる。当然のことながら、苦しみを感じないのであれば、「生きる」という生存本能に因って自殺を試みることは無いだろう。例外もあろうが。
人間が自ら死を求める時、苦しみがまとわりついている。苦しむとき全てに死の願望がつきまとうわけではないが、その苦しみが人間が生まれながらに持ち合わせている生存本能を超越する、という特異な状態に陥る時に、初めて死を求める。その苦しみというのは様々な要因があって、押し並べて抽象することは出来ない。しかもそれが他人にとってはほんの些細なことに因って齎される場合もある。些細な要因であっても、それが当事者にとっていきたいという本能を超越する様な苦しみに成長するとき、死にたいと思う様になる。
「生きる」というとこはどういうことなのか。生きているという状態は、様々な欲求に支配されている。それが意識的なものにせよ、無意識的なものにせよ、だ。呼吸を意識的にしている状況というのはあまり日常的ではない。例えば水に潜っているとき無呼吸である。水中に長い間いると血液中の酸素が減って、水面上に上がらなければ、と意識する。呼吸器系の病にある時、呼吸が侭ならず、自発的に行えない場合は機械に繋ぎ、なんとかして呼吸しようとする。然し、日常では、睡眠中も、食事中も、歩いていても、座っていても、意識しないで呼吸している。然し乍ら、これも欲求である。私達のすべてが、欲求の上に成り立っている。その欲求とは、生きていく為に、如何にして子孫を残していくか、其れ故のものである。其れに反して死んでいくとき、人間の本能に逆らっている。然し、実はそれは人間だからこそ、進化の上に勝ち得た幸せを得たい、という本能故なのである。
三 自殺は何故禁忌なのか
然し何故、自殺は禁忌とされているのか。生きていたくないのならば、死ねばいい、はずなのに。卑怯だ、逃避だ、心が弱いからだ、と自殺に向けられた非難は手厳しいものだ。宗教に因っては葬儀すら行われないこともあるらしい。
先ず一つに、周囲を悲しませるからだ、とよく云われる。然し其れは、自殺を否定するのには不十分である。何故、自分の生きることも難しくなる様な苦しみよりも、他人の悲しみを優先しなければならないのか。人間は自らの幸福を最優先すべきだし、実際にそうしている。自分が死んだ後の世界など考える必要などない。それに、自分が消滅した後に、自分が属していた、とされる世界が、其れ以後存在しているかどうかすら疑問である。
本当は自殺は悪ではない。してはならない理由など無い。自殺者の絶対的自由の中にまで入りこむ権限を持っている者など、存在しないからだ。自殺をしようと思い立ち、そうするのであれば、止めることは出来ない。だからこそ、苦しみの末に自殺を選択しようとする者を思いとどまらせる為に、禁忌とされるのである。
四 自殺者とそうでない人の違い
そもそも何故、死ななければならないのか。大多数の人間は、自殺ではない理由で死ぬことになる。何故自殺者は自殺に因って死ぬのか。死ではない他の解決の方法は無いのか。自殺を思い立つ程の苦しみから逃れる術は本当に死しか無かったのか。生きる為に存在している全ての人間は、本来ならば自殺という手段を選ばないはずだ。然し実際に存在している「自殺」とは果たして何なのだろうか。
自殺をして逝く人間は、よく弱い、と云われる。確かに、生存競争に負けてしまった弱者なのかもしれない。人間は本能的に「強い」を求める。人間は現在の位置より少しでも強くなろうとする。然し、「強い」「弱い」というものは際限なく上下がある。今在る位置が、果たして何処なのか、わからない程に。弱い人間の上に、更に弱い人間がいる。強い人間の上には、更に強い人間がいる。弱い人間の下には、僅かに強い人間がいて、強い人間の下には、僅かに弱い人間がいる。不特定多数の誰かの間に誰かが挿まれていて、その両隣に誰がいるのか、それすら全く分からない。総合的な人間の強弱は、オリンピック競技会で判断される様な、単純な強弱ではないのである。勿論、地球上の人口は決まっているわけだが、一生かかっても全ての人間には会うことが出来ない。今この瞬間にも誰かが生まれ、誰かが死んでいる。人間の数は、実質的には無限なのだ。
その中で、人間社会では、公平、平等が求められる。その現代社会に置いては、強さを追い求めることにはあまり意味が無い。もしかすると、それは傲慢な行いなのかもしれない。この社会に於いては、全ての人間は、強くもなく、弱くもない。
否、それは違う。人間は生まれながらにして不公平で、不平等で、不条理である。なんとか争いも無く、平安な世界を理想都市、導こうとする政治家達は、事実をひた隠し、非政治家である市民に、公平と平等を実しやかに吹聴するのだ。限りなく不公平で、不平等で、不条理な世界だと気付いてしまった人間こそが、真実に行き当たってしまった人間こそが、自殺者なのである。
もちろん一昔前のだから不完全なのだろうけれど、これをきっかけに議論がより深い方向へ行けばいいと思う。
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